SEVENTEENがいなかったら死んでいた――②

2019年夏の日。

コロナのない、あの頃。

かねてより、我が母と妹はK-POPアイドルにはまっていた。

悪いが、私は硬派な人間なのでアイドルなどにうつつを抜かさぬ。

正直なところを申せば、当時の自分はK-POPアイドルにきゃあきゃあいう女・子供を軽蔑していたし、K-POPアイドルそのものにも、女・子供にきゃあきゃあ言われる軟弱な者と、偏見を持っていた。

 

そんな自分に運命の日が訪れた。

2019年9月28日。

わたしは敗者だった。

 

人間は、社会との接点をいくつか持っていると思う。

当時の私は、その社会との接点がいずれも破綻していた。

30歳を前に破綻していた。

 

「こんな状況で、これからも生きられるのか⁉」と、

映画『バッファロー66』の、洗面所で「生きられない」とおめいたヴィンセント・ギャロのような状況だった。

 

そんな折、K-POPアイドルにきゃあきゃあ言う女・子供である我が母と妹と、ひょんなことから高畑勲展に出向くことになった。

日本のアニメの発展を見、高畑勲氏の功績を見、大いに心を揺さぶられた。

会場を後にし、竹橋の駅へ向かう。すると、母と妹がどちらからともなく、「まだ時間もあるし、せっかくだから新大久保へ行こう」という。

 

……なにがせっかくなのだろうか?

 

正直困惑したのだが、私は、この世界のあらゆることを知りたく、

かつ、「偶然」を愛している。

つまり、こうした突拍子もない提案に興奮を覚えてしまうヤバいメンタリティを持っているため、

「じゃあ、行こう。アイドルとか正直知らないけど。いいよ別に」

などと言って、新大久保へ向かったのである。

 

初めての新大久保。

立ち並ぶ、勝手に写真を使って制作されたK-POPアイドルのグッズ群。

コンサート映像の違法DVDがわんさか陳列、どれも500円程度(3枚だと1000円とかさらに安くなる)。

その横に、本人たちが来日してこの店に来た時に

したためたサインが並んでいる。謎。

公式とか非公式とか置いといて、「好き」が噴出しまくっている。謎。

 

店内には、お化粧をしている端正な顔立ちの男性アイドルのポスターが至る所に貼ってある。

なんとコメントするべきなのかもわからない。

でも何か、言葉にはできぬが、心が動いてしまう。

それは、恋愛や性の対象というのとはまた違う。

知らなかった異性の像を、私の網膜は結んだ。

受け入れがたい気持ちもある。でも、そう感じる自分の心を、じっくり見てみたい気がした。

そこに、私の「敗者」としての要因がある気もした。

 

……などと、一人で屈託しながら陳列棚を眺めていた。

隣では、母と妹が、私だったらどのグループにはまるだろうかと議論を始めた。

私は、衝撃を受け動揺している自分を隠して、こう言った。

 

「ふ~ん。これが流行っているのね。

 出版業界にいるからさ、最新のトレンドも知りたいし。

 1枚500円だから、ふたりのおすすめを1枚ずつ選んでよ」

 

その言葉を受けた母と妹は、海賊版DVDがびっしりと並ぶ棚の前で小一時間ほど真剣に悩み、さんざんに迷った。

挙句、母はSHINee、妹はSEVENTEENのDVDを選んだ。

 

その時の私は、まさか、こんなことになるとは思っていなかった。

海賊版の解像度ボロボロの映像が、私の人生を変えてしまうとは、

まったく予想だにしなかったのである。

 

お会計をして、ゆるやかな階段をあがっていった。

その場所は、韓流PLAZA。

当時はSEVENTEENさんの直筆サインが飾られていた。

ぜひ行ってみてほしい。

2020年以降の爆発的なKブームの影響か、

今や直筆サインも海賊版のグッズやDVDも撤去され、

コスメやアクセサリーばかりになってしまったのだった。

SEVENTEENがいなかったら死んでいた

死にたいと思ったのは、たった1回だけ。秋葉原の駅で電車を見ていた。2012年の初夏だったと思う。その後、死にたいと思ったことはない。「生きられない!」と思うことは、数えきれないほどあるが。

 

月日は流れ、2019年の夏。死にたいとは思っていないが、存在の消滅を感じて怯えていた。消されそうだった。

 

私は、昔から空気が読めない。しかし、年を重ねれば重ねるほど居心地が悪いので、読むことにした。

ちなみに、この世のベストセラーはずっと「空気」です。

ロックンロールを聞いて生きてきたからそんなもんシカトできるぜと思っていたが、ロックなんかで太刀打ちできないくらい、「空気」は強固だ。

 

年を重ねた私は、空気をしっかり読んだ。私は読解力が優れているので、すぐに理解した。「あ、これ私、死んだ方がいいやつ!」と。ちなみにこの場合の「死」は、肉体ではなく精神です。肉体の死はわかりやすく動かなくなるので悲しまれるが、精神の死は誰も悲しまない。死んでいることすら気が付かれない。自動操縦モードになっているから、傍目にはわからないのだ。しかも、自分が死んでいることすら、当人が気が付いていないこともある。

 

もう、すべての物事が自分を蝕む方向へ舵を切っていた、あの2019年の夏。

SEVENTEENと出会ったのである。

(多分続く)

 

『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレという名の違和感の正体

なぜ、WEBの記事はどれも「~の正体」や「~の理由」をタイトルにするのだろう。

その正体や理由が何か、タップする前から想像がついてるのに、なぜ見てしまうの?

なぜ、見たら「思う壺だ!」と憎しみを抱いてしまいそうだから、タップするのを我慢して、スクロールしてしまうのだろう。

 

……では、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレをはじめます!

 

これ、過去のサム・ライミのシリーズとアメイジングのシリーズと、MCUのシリーズのスパイディが、のっぴきならぬ事情により、同じ世界に集い、末には共闘するって映画です。

 

ストーリーそのものに深く入れ込むよりも、これでもかと散りばめられている、「〇〇的目配せ(←昔、ロッキンオンとかでよく見た表現)」にいかにリアクションするかが求められる映画と思いました。

 

「あっ! ウィレム・デフォー、原作グリーンゴブリン風コーデでカワヨ~」とか「アメイジングでグウェンが救えなかった分ね、コレ……ううう(涙)」とか。前の2シリーズを思い出して、ぴえんの絵文字顔になれるかが鍵かも。

 

ただ、前2シリーズと大きく違うなとひしひし感じたのは、ポリコレに対する在り方。

主人公を取り巻く「家族」や「恋人」の属性がまず全然違う。彼には血縁関係の人間が周囲にいないし、恋人は白人ではない。アメイジングの設定はステレオタイプ強化しすぎ(イケてる主人公、白人彼女、イケてない友人が悪堕ち、黒人の悪役)なので、〈黒人のスパイダーマンもどっかにいる(うろ覚え)〉というセリフがかなり効いてくる。

 

社会情勢や報道の在り方にもしっかり目配せをしていて、序盤は「陰謀論ってこうやってメディアが煽るよな、しょうもな!」とか「有名な人をここまで追いかけるマスコミってなんなの?(皇室の方の婚約相手を執拗に追うキモイメディアを思い出す)」など。

悪役のグリーンゴブリン達に「心身の問題を抱えている」としてケアを施そうと試みるのも、特徴的。「道徳w」という冷笑をいかに越える。「悪堕ちするにも理由があるんだ」っていう悪に寄り添うキモイ言説を生んだ「JOKER」と違って、すごいと思う。

挙げるとキリがないくらい、こういった「うんうん! そうそう!」となる要素が散りばめられている。(※私が受け取っているだけ説もある)

 

とにかく目くばせが多くて、ずっとそこに反応してる感じの映画です。

運ばれてきたのは、たぶんふつうのハンバーグなんだけど、皿とか付け合わせとかカトラリーとか店の内装やBGMが、いい感じや~ん、みたいな。

切ってみたら生焼けだけど、それ、敢えてなんよね。この熱々の石に押し付けると、じうぅうう~!って。焼けちゃうんですよお。良くないですか?

みたいな。

で、その実、このハンバーグが本当にうまいのかはよくわからない。

いや待てよ、「本当にうまい」なんて、実際わからないのでは?

実はこのハンバーグにはシャトーブリアンが使われてました、とかいう場合もあるから。

いやいや、そういうことじゃないよ、うまさは。わたしが付加価値的にみなしている、そう、ここで「目配せ」と呼んでいるものこそが、おいしさを担保するものに、もうなってきているんではないか?

 

……別のものに例えて、ストレートに語ることを避けてすみません。でも、おもしろいのかおもしろくないのか、やっぱりわからない映画でした。

 

園子音の映画を大学時代に見ていたころは、面白いけど良くはないなと思っていたのですが、正直、この映画は良いけど面白いのかはよくわからない、って感じでした。

ただこんな風に言うと、映画的引用の面白さ(知識量に裏打ちされる)やポリティカルコレクトネスは作品の魅力を半減させるという主張に思われるやも。

そうではなくて、たぶん、もう世の中の「面白い」の感覚が変わってきているのだと、私は思う。

世の中のというか、私が今まで持っていた価値観を脱がないと、マルチバースでは生きていけないんだなあと、つくづく思う。

 

ところで、副題の『ノー・ウェイ・ホーム』。

帰るところがない、とか、故郷がない。

という意味ですよね。

 

帰る場所がないのはとっても悲しいことのようですが、私はちょっと良いなって思ったんですよね。

だってもう、「個」の時代になっているので。

 

帰ることのできる「家」があると思うから、寂しい。

でも、もうこれからは、「家」なんて無い。みんな一人です。

伝統的な家族や共同体が崩壊するなかで、最後に私のそばにいるのは、自分だけ。

 

ノー・ウェイ・ホームの主人公のスパイダーマンは、血縁関係の人が周囲にいないようで、寄り添ってくれる大人、大好きな友人や恋人(いわゆる白人じゃなかったりする)との繋がりがある。今らしいキャラクターだ。

そんな彼は、激闘と思考、そして決断の末、戻る場所を失う。

ラスト、自分のことを忘れたMJと話すシーンは、大泣きするぞスイッチを入れようと思ったけど、なんかそこまでではなかった。

たとえば、よくある展開として、MJがピーターを思い出しているようなセリフを言う、とか、ちょっとだけ関係がつながる描写――たとえば微笑み合うとか連絡先教えるとか――をするとか、があると思う。

でも、そうじゃない。自分の愛する人、友人が日常を生きている。そして今、自分はそれを認識している――。私は、ピーターはそれで、とりあえず今日は生きられると思ったんじゃないかなって、思った。

 

そりゃわかんないですよ、彼は明日もまたMJに会いに店に行き、ウザがられるかもしれない。いや、あのまま一生声をかけられないかもしれない。

未来のことはわからない。

でも、あの瞬間のピーターは、大切な人を意識して今日を生きる自分という「個」を認知した気がするのです。

 

【Cパート】

3人のスパイディがくれたのは、「どこにいっても、同じ」ってこと。

自分がどこにいようと、やることって一緒なんだなあっていう。

「大いなる力には、大いなる責任がともなう」という強い言葉は残り続けるし、大切なものを奪われたら、殺したくなるほど憎んでしまう愚かさがある。

それはたぶん、どの世界にいっても変わらないことだ。

だから私は、ここで一人で生きる。

推しに左右されるようになった人生を、私はこれからも歩み続けるのだな

今日、後楽園ホールでは、仙台女子プロレス橋本千紘選手とマーベラス彩羽匠選手のシングルが行われる。

大好きな仙台女子プロレスの選手が見られる。嬉しい。

 

後楽園ホールはこの時期寒いので、仙女Tシャツを着なかった。というか、昨日洗濯して外に干しっぱなしでなんか冷たいし(※取り込まない怠惰)、着なくてもまあいいか。大丈夫。

そのとき私は、この試合の勝敗を、そんなに真剣に考えていなかった。

いつも重宝している裏起毛のパーカーを着て、外に出た。

 

さて。橋本千紘選手は今日、負けてしまったのだ。

 

________

 

会場に入ると、赤い服に身を包んだ彩羽匠選手のファンのお客さんがたくさんいる。赤いサイリウムを有志のファンが配っていた。

やっぱりすごいなあ、人気だなあ、そらそうだよね。

 

興行がはじまった。

好きな選手がいっぱい出てくるので、楽しく見る。

朱崇花選手、赤井沙希選手、岡優里佳選手。みんな素敵でカッコいい。

 

そして、いよいよメイン。

試合が始まる。呼び込み、暗転。

 

赤いサイリウムを持ったファンは、一斉にそれをパキっとやって振り始めた。

なるほど、すごくアウェイな状況だ。

そこへ、自分のもつベルトをすべて持って現れた、橋本選手。

そのときですら、私は橋本選手が負けるかもなんて、1㎜も脳裏によぎらなかった。

それは、彩羽選手が負けるだろうって意味ではなくて、橋本選手が負けるのが想像できなかったということ。

これ、今思い返しても不思議なのだが、どちらかが勝つということはどちらかが負けるということなのに、「橋本選手は勝つ」とだけ私は思っていた。

「橋本選手が勝つ」ではない。「橋本選手は勝つ」、だ。

日本語は助詞の1文字が変わるだけで、こんなにも味わい深く文意が変わってくるから、おもしろい。

 

ただ、そんな私も、途中から気づいてしまう。

「ああ、そうか。これ今日、橋本選手負けてしまうんだ」。

 

そして私は、自分が仙女Tシャツを着てこなかったことをひどく恨んだ。

AAAWのベルトは、仙女の三人、DASH・チサコ選手、橋本選手、岩田美香選手がとったベルト。そう、仙女がとったベルトなんだ。

GAEAISMで初めて見た、仙台女子プロレスの皆さん。

私の心に深く突き刺さり、昨年の疾風怒濤の下半期を生き延びさせてくれた、仙台女子プロレス

その人たちが手にしたベルト。

 

3カウント。涙がぽろっと出てきたが、我慢する。涙目程度で済む。

駄目だ、マジになったら駄目だ、これは自分の社会生活に影響するやつだ。

耐えろ。

 

たまにあるんだ、プロレスの勝敗が生活に差し障ることが。

逆にいえば、推しが勝っているだけで、自分が強い人間のように思えたりする。

これは、自分の人生を生きられていない証拠でもある。

 

アバターっていうのは、何も、自分の姿形をした2次元のキャラクターではない。

私たちはいつも、別の何かに自分の魂をぴゅっと飛ばして宿らせて、その何かの一挙手一投足を見て、その葛藤や、復活と再生、活躍などなどを見て、自らを投影、自分の人生を「やっている」かのようにして、息している。この世界を生きるための処世術ともいえる。

いわゆる、推しとかオタ活とか、そういうのは、そういう魂の飛翔なんだ。自分の人生を真正面から生きるのは、あまりにも辛い。

 

でもそんなとき、自分が魂を宿らせた存在が、挫かれるととてもつらい。

負けるんだって気がついたときに、負けることを実感した。

負けるんだったんだ、今日は。

 

会場では涙を流さず済んだ。

強くならねばと思い、そのあと道場に行った。

すごい強いキックをする、自分より小柄な女性の蹴りをミットで受けて、鼓膜がじぃんとしてふらついた。自分のフィジカルの弱さを痛感すると、とたんに、さっきの試合のことも思い出され、悲しくなってしまった。魂を宿らせた私の弱さが足を引っ張ったような気さえしてくる。おかしな話だし、そんなわけないんだけど。

大丈夫か、私。明日、頑張って会社行ってくれよな……。お前の人生は、会社に行って、本をつくることだ。目的、あるじゃないか。やれよ……。

 

……とかなんとか、私が勝手に宿らせるとか、アバターなんだとか云々言ってる間に、橋本選手は、仙台女子プロレスの皆さんは、めちゃくちゃ強い人たちだから、私が仮託してこようがなんだろうが関係なく、これからも強く戦っていくんだよなあ。

 

私はそんなみんなの勝敗とかに勝手に左右されながらも、なんとなく生き延びよう。

落ち込まずに、仕事も道場もがんばって続けよう。

あなたの「母性」は断末魔―あるいは、私たちは母を解放できるか?

正月なので、実家に帰る。

母がくるくると動きまわっている。

「お母さん、もう座んなよ」と声をかける。

母は一向に座らない。

見ると、わざわざキャベツを千切りするなどしている。

トントントントントントン……。

「コンビニで千切りキャベツ買えばいいじゃん」という言葉をぐっと飲みこむ。

しばらくすると、食卓に千切りキャベツが並ぶ。メインのおかずにそっと添えられるための千切りキャベツ。

そのキャベツを口にした妹は「やっぱり、こうやって、包丁で切ったキャベツがおいしいよね」と、ほめてるのか気遣ってるのか、たぶんそのどっちでもある言葉を放つ。

私はここには居られない。あまりにも、違和感がありすぎるのだ。

 

三が日をすべて実家で過ごすことに耐えられず、私は帰る。

自分が世帯主たる自宅へ帰る。

それができる自分の幸福を嚙み締める。

一方で、女でありながらそれが出来る自分の特権にも後ろめたさを感じている。

 

私は母を傷つけたくてこれを書いているのではない。

母は、一人の人間だ。私を産み落としたという理由だけで、私に寄り添って様々な時間をともに過ごした人間だ。とても感謝している。

だから、キャベツの千切りはもうしなくて良い。だって、フツーに大変だもの、面倒だもの。

したいならしたらいいが、わざわざトントントントンと、刃物の音で周囲に圧をかけてまですることではない。そう、刃物の音は、母が唯一行使できる暴力かもしれないのだ。

 

……腹立つだろうなと思うが、もう少し続けさせてほしい。

無理やりにもキャベツを千切りするのは、「母性」による評価をそこに求めているからではないか?

家から子供たちが出ていった今、母性を評価する人間がいなくなってしまったのではないか? だから、いまやあなたの母性は断末魔。たまに家に帰ってきた子どもたちに、そうしてトントンと威圧しながらキャベツを刻むしかなくなってしまっているのではないか?

(母をやっている方は多かれ少なかれ腹が立つと思うのですが、もう少し読んでいただけませんか……。逆に、女の側からこう言うなんて清々しいぜ、と思う人も、この後読んでください……)

 

キャベツを千切りすることは、多少の節約になるかもしれない。でも、もう千切りキャベツはかなり安い値段で買える。これは、どう考えても自ら面倒をやりにいっている。面倒をやりにいった上で、トントントントンと包丁でことさら音を立てることで、周囲の者たちに、「僕・私のために大変なことをさせてすみません」という緊張感を持たせる。

「私はこの面倒な作業を無償でやる。なぜなら、これをあなたがたにやるほどの『母性』が私にはあり、それがすべてあなた方に向けられているのだ」というメッセージを感じずにはいられない。

私の母は、『母性』にがんじがらめだ。誰が『母性』を発明したんだろう……。

 

そんな折、文化人類学の大家として認識していた梅棹忠夫先生に『女と文明』なる著作があることを知り、読んだ。それには以下のような記述がある。

 

〈家事をなまけるということに対する道徳的批判が、家庭内部にひじょうにおおいのだとわたしはおもいますね。(中略)子どもはあんがいおおきな批判者です。子どものつきあげです。子どもというのは道徳家ですから、母親に対する批判というものが、いつもそうとうあるのだと思います。〉

 

わたしは、ある時期――10代から20代前半にかけての疾風怒濤の時期――に、とてつもなく道徳家な子どもであった。そして、母に対して懲罰的な態度をとる娘だった。

家事のいっさいを母がやっていたにもかかわらず、だ。

「子どもたる自分は愛情をもって育てられるべき存在であり、母はそれをすべきだ」という思想。

あれは、どこからやってきた思想だったのだろう?

 

母に『母性』を押し付けて、さんざんに踏みつけた。そして今、大人になった。そんな私は、全力で『母性』にあらがっている。

結婚もしなければ、子どもも生まないし、「女だから母性があるよね」的論者に日々言論的ラリアットかまして生きている。

母がやってくれたことの恩返しなど、ひとつもしていない。

あんなに自分を犠牲にした母からしたら、こんな私は本当にむかつくと思う。

でも私は、「お母さん、ありがとう(ぴえんの絵文字) 私もお母さんみたいなお母さんになれるよう頑張る!(力こぶの絵文字)」をやりたくないんだ~。ご免なの、ゴメン。

そんな、「身勝手」な私に対して、たまに帰ってきた時に刃物をトントントントンして殺伐とした雰囲気を醸し出すくらいで我慢している母は、まじで偉すぎるよ……。

 

梅棹先生はこうも言う。

 

〈主婦にしたら、夫からわるい細君だとおもわれたり、子どもからわるい母親だとおもわれたらこまるとおもいます。ところが、よいかわるいかどこで判定しているかというと、家事をりっぱにおこなうかどうかで判定されている場合がおおい。ひじょうにつよい完全主義の道徳論というものがありましてね、〉

 

キャベツを千切りする呪いを私は解くことができない。

なぜならその呪いは、その昔に私が母にかけたものかもしれないからだ。

「お母さんなんだから」と。

卵が先か鶏が先か、わからないんだけどね。

 

そんな母は、強烈な武器を私に授けた。

いや、強烈な、またある種の呪いをかけたとも言える。

 

「本を読め」。

 

これは、武器であるとともに、呪い。

 

母は、社会のシステムによって「母性をもつ者」に仕立てられながら意識を失いつつも、私にこれだけはしっかり授けねばと思い、たくさんの本を読み聞かせた。

そして私は、読んだ。

たまに読まなかったけど、わりかし私は読んだ。

 

母はきっと「お前は本を読め。本を読んで、抗い続けろ」と、私に未来を託した。

それとともに、「母性を宿らせられ、お前を生み育てた私が成仏するためにも読め」という呪いもかけた。

でも、私がかけられてるっぽいこの呪いは、母がかけられた呪いに比べたら、はるかに簡単に解ける呪いだった。

というか、ある程度時間がたつと解ける類の、優しい呪いだった。

そこに私は愛を感じている。そんな母を思うと不意に涙が零れ落ちる。そんな、愛。

 

私は、今なおキャベツを千切りする母を、本当の本当にありがたく思っているし、とっても愛している。これは、『母性』ならぬ『子性』かもしれない。