あなたの「母性」は断末魔―あるいは、私たちは母を解放できるか?
正月なので、実家に帰る。
母がくるくると動きまわっている。
「お母さん、もう座んなよ」と声をかける。
母は一向に座らない。
見ると、わざわざキャベツを千切りするなどしている。
トントントントントントン……。
「コンビニで千切りキャベツ買えばいいじゃん」という言葉をぐっと飲みこむ。
しばらくすると、食卓に千切りキャベツが並ぶ。メインのおかずにそっと添えられるための千切りキャベツ。
そのキャベツを口にした妹は「やっぱり、こうやって、包丁で切ったキャベツがおいしいよね」と、ほめてるのか気遣ってるのか、たぶんそのどっちでもある言葉を放つ。
私はここには居られない。あまりにも、違和感がありすぎるのだ。
三が日をすべて実家で過ごすことに耐えられず、私は帰る。
自分が世帯主たる自宅へ帰る。
それができる自分の幸福を嚙み締める。
一方で、女でありながらそれが出来る自分の特権にも後ろめたさを感じている。
私は母を傷つけたくてこれを書いているのではない。
母は、一人の人間だ。私を産み落としたという理由だけで、私に寄り添って様々な時間をともに過ごした人間だ。とても感謝している。
だから、キャベツの千切りはもうしなくて良い。だって、フツーに大変だもの、面倒だもの。
したいならしたらいいが、わざわざトントントントンと、刃物の音で周囲に圧をかけてまですることではない。そう、刃物の音は、母が唯一行使できる暴力かもしれないのだ。
……腹立つだろうなと思うが、もう少し続けさせてほしい。
無理やりにもキャベツを千切りするのは、「母性」による評価をそこに求めているからではないか?
家から子供たちが出ていった今、母性を評価する人間がいなくなってしまったのではないか? だから、いまやあなたの母性は断末魔。たまに家に帰ってきた子どもたちに、そうしてトントンと威圧しながらキャベツを刻むしかなくなってしまっているのではないか?
(母をやっている方は多かれ少なかれ腹が立つと思うのですが、もう少し読んでいただけませんか……。逆に、女の側からこう言うなんて清々しいぜ、と思う人も、この後読んでください……)
キャベツを千切りすることは、多少の節約になるかもしれない。でも、もう千切りキャベツはかなり安い値段で買える。これは、どう考えても自ら面倒をやりにいっている。面倒をやりにいった上で、トントントントンと包丁でことさら音を立てることで、周囲の者たちに、「僕・私のために大変なことをさせてすみません」という緊張感を持たせる。
「私はこの面倒な作業を無償でやる。なぜなら、これをあなたがたにやるほどの『母性』が私にはあり、それがすべてあなた方に向けられているのだ」というメッセージを感じずにはいられない。
私の母は、『母性』にがんじがらめだ。誰が『母性』を発明したんだろう……。
そんな折、文化人類学の大家として認識していた梅棹忠夫先生に『女と文明』なる著作があることを知り、読んだ。それには以下のような記述がある。
〈家事をなまけるということに対する道徳的批判が、家庭内部にひじょうにおおいのだとわたしはおもいますね。(中略)子どもはあんがいおおきな批判者です。子どものつきあげです。子どもというのは道徳家ですから、母親に対する批判というものが、いつもそうとうあるのだと思います。〉
わたしは、ある時期――10代から20代前半にかけての疾風怒濤の時期――に、とてつもなく道徳家な子どもであった。そして、母に対して懲罰的な態度をとる娘だった。
家事のいっさいを母がやっていたにもかかわらず、だ。
「子どもたる自分は愛情をもって育てられるべき存在であり、母はそれをすべきだ」という思想。
あれは、どこからやってきた思想だったのだろう?
母に『母性』を押し付けて、さんざんに踏みつけた。そして今、大人になった。そんな私は、全力で『母性』にあらがっている。
結婚もしなければ、子どもも生まないし、「女だから母性があるよね」的論者に日々言論的ラリアットをかまして生きている。
母がやってくれたことの恩返しなど、ひとつもしていない。
あんなに自分を犠牲にした母からしたら、こんな私は本当にむかつくと思う。
でも私は、「お母さん、ありがとう(ぴえんの絵文字) 私もお母さんみたいなお母さんになれるよう頑張る!(力こぶの絵文字)」をやりたくないんだ~。ご免なの、ゴメン。
そんな、「身勝手」な私に対して、たまに帰ってきた時に刃物をトントントントンして殺伐とした雰囲気を醸し出すくらいで我慢している母は、まじで偉すぎるよ……。
梅棹先生はこうも言う。
〈主婦にしたら、夫からわるい細君だとおもわれたり、子どもからわるい母親だとおもわれたらこまるとおもいます。ところが、よいかわるいかどこで判定しているかというと、家事をりっぱにおこなうかどうかで判定されている場合がおおい。ひじょうにつよい完全主義の道徳論というものがありましてね、〉
キャベツを千切りする呪いを私は解くことができない。
なぜならその呪いは、その昔に私が母にかけたものかもしれないからだ。
「お母さんなんだから」と。
卵が先か鶏が先か、わからないんだけどね。
そんな母は、強烈な武器を私に授けた。
いや、強烈な、またある種の呪いをかけたとも言える。
「本を読め」。
これは、武器であるとともに、呪い。
母は、社会のシステムによって「母性をもつ者」に仕立てられながら意識を失いつつも、私にこれだけはしっかり授けねばと思い、たくさんの本を読み聞かせた。
そして私は、読んだ。
たまに読まなかったけど、わりかし私は読んだ。
母はきっと「お前は本を読め。本を読んで、抗い続けろ」と、私に未来を託した。
それとともに、「母性を宿らせられ、お前を生み育てた私が成仏するためにも読め」という呪いもかけた。
でも、私がかけられてるっぽいこの呪いは、母がかけられた呪いに比べたら、はるかに簡単に解ける呪いだった。
というか、ある程度時間がたつと解ける類の、優しい呪いだった。
そこに私は愛を感じている。そんな母を思うと不意に涙が零れ落ちる。そんな、愛。
私は、今なおキャベツを千切りする母を、本当の本当にありがたく思っているし、とっても愛している。これは、『母性』ならぬ『子性』かもしれない。