『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレという名の違和感の正体

なぜ、WEBの記事はどれも「~の正体」や「~の理由」をタイトルにするのだろう。

その正体や理由が何か、タップする前から想像がついてるのに、なぜ見てしまうの?

なぜ、見たら「思う壺だ!」と憎しみを抱いてしまいそうだから、タップするのを我慢して、スクロールしてしまうのだろう。

 

……では、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』のネタバレをはじめます!

 

これ、過去のサム・ライミのシリーズとアメイジングのシリーズと、MCUのシリーズのスパイディが、のっぴきならぬ事情により、同じ世界に集い、末には共闘するって映画です。

 

ストーリーそのものに深く入れ込むよりも、これでもかと散りばめられている、「〇〇的目配せ(←昔、ロッキンオンとかでよく見た表現)」にいかにリアクションするかが求められる映画と思いました。

 

「あっ! ウィレム・デフォー、原作グリーンゴブリン風コーデでカワヨ~」とか「アメイジングでグウェンが救えなかった分ね、コレ……ううう(涙)」とか。前の2シリーズを思い出して、ぴえんの絵文字顔になれるかが鍵かも。

 

ただ、前2シリーズと大きく違うなとひしひし感じたのは、ポリコレに対する在り方。

主人公を取り巻く「家族」や「恋人」の属性がまず全然違う。彼には血縁関係の人間が周囲にいないし、恋人は白人ではない。アメイジングの設定はステレオタイプ強化しすぎ(イケてる主人公、白人彼女、イケてない友人が悪堕ち、黒人の悪役)なので、〈黒人のスパイダーマンもどっかにいる(うろ覚え)〉というセリフがかなり効いてくる。

 

社会情勢や報道の在り方にもしっかり目配せをしていて、序盤は「陰謀論ってこうやってメディアが煽るよな、しょうもな!」とか「有名な人をここまで追いかけるマスコミってなんなの?(皇室の方の婚約相手を執拗に追うキモイメディアを思い出す)」など。

悪役のグリーンゴブリン達に「心身の問題を抱えている」としてケアを施そうと試みるのも、特徴的。「道徳w」という冷笑をいかに越える。「悪堕ちするにも理由があるんだ」っていう悪に寄り添うキモイ言説を生んだ「JOKER」と違って、すごいと思う。

挙げるとキリがないくらい、こういった「うんうん! そうそう!」となる要素が散りばめられている。(※私が受け取っているだけ説もある)

 

とにかく目くばせが多くて、ずっとそこに反応してる感じの映画です。

運ばれてきたのは、たぶんふつうのハンバーグなんだけど、皿とか付け合わせとかカトラリーとか店の内装やBGMが、いい感じや~ん、みたいな。

切ってみたら生焼けだけど、それ、敢えてなんよね。この熱々の石に押し付けると、じうぅうう~!って。焼けちゃうんですよお。良くないですか?

みたいな。

で、その実、このハンバーグが本当にうまいのかはよくわからない。

いや待てよ、「本当にうまい」なんて、実際わからないのでは?

実はこのハンバーグにはシャトーブリアンが使われてました、とかいう場合もあるから。

いやいや、そういうことじゃないよ、うまさは。わたしが付加価値的にみなしている、そう、ここで「目配せ」と呼んでいるものこそが、おいしさを担保するものに、もうなってきているんではないか?

 

……別のものに例えて、ストレートに語ることを避けてすみません。でも、おもしろいのかおもしろくないのか、やっぱりわからない映画でした。

 

園子音の映画を大学時代に見ていたころは、面白いけど良くはないなと思っていたのですが、正直、この映画は良いけど面白いのかはよくわからない、って感じでした。

ただこんな風に言うと、映画的引用の面白さ(知識量に裏打ちされる)やポリティカルコレクトネスは作品の魅力を半減させるという主張に思われるやも。

そうではなくて、たぶん、もう世の中の「面白い」の感覚が変わってきているのだと、私は思う。

世の中のというか、私が今まで持っていた価値観を脱がないと、マルチバースでは生きていけないんだなあと、つくづく思う。

 

ところで、副題の『ノー・ウェイ・ホーム』。

帰るところがない、とか、故郷がない。

という意味ですよね。

 

帰る場所がないのはとっても悲しいことのようですが、私はちょっと良いなって思ったんですよね。

だってもう、「個」の時代になっているので。

 

帰ることのできる「家」があると思うから、寂しい。

でも、もうこれからは、「家」なんて無い。みんな一人です。

伝統的な家族や共同体が崩壊するなかで、最後に私のそばにいるのは、自分だけ。

 

ノー・ウェイ・ホームの主人公のスパイダーマンは、血縁関係の人が周囲にいないようで、寄り添ってくれる大人、大好きな友人や恋人(いわゆる白人じゃなかったりする)との繋がりがある。今らしいキャラクターだ。

そんな彼は、激闘と思考、そして決断の末、戻る場所を失う。

ラスト、自分のことを忘れたMJと話すシーンは、大泣きするぞスイッチを入れようと思ったけど、なんかそこまでではなかった。

たとえば、よくある展開として、MJがピーターを思い出しているようなセリフを言う、とか、ちょっとだけ関係がつながる描写――たとえば微笑み合うとか連絡先教えるとか――をするとか、があると思う。

でも、そうじゃない。自分の愛する人、友人が日常を生きている。そして今、自分はそれを認識している――。私は、ピーターはそれで、とりあえず今日は生きられると思ったんじゃないかなって、思った。

 

そりゃわかんないですよ、彼は明日もまたMJに会いに店に行き、ウザがられるかもしれない。いや、あのまま一生声をかけられないかもしれない。

未来のことはわからない。

でも、あの瞬間のピーターは、大切な人を意識して今日を生きる自分という「個」を認知した気がするのです。

 

【Cパート】

3人のスパイディがくれたのは、「どこにいっても、同じ」ってこと。

自分がどこにいようと、やることって一緒なんだなあっていう。

「大いなる力には、大いなる責任がともなう」という強い言葉は残り続けるし、大切なものを奪われたら、殺したくなるほど憎んでしまう愚かさがある。

それはたぶん、どの世界にいっても変わらないことだ。

だから私は、ここで一人で生きる。